◆ 2017年1月19日  808回 例会 ◆

於:ニューオータニ幕張
 

清水 隆 会長
 
本日の臨時総会での議案は、規定審議会での決定事項に寄る、クラブ細則の一部を改正する為の臨時総会となります。
内容を簡単に説明いたしますと、クラブ運営の柔軟性を考えて、例会スケジュールの変更、例会の方法を変更、出席要件の緩和、複数の会員種類の提供、ローターアクターがクラブに入会などを、クラブのニーズに合った変更を取り入れても良いのではと私は思っております。CLPや研修委員会なども同じだと思っております。クラブの裁量権の中で実施したうえで、判断しても良いのではないかと思っております。
 
   


※その後開かれた臨時総会での議案は全て賛成多数により可決されました。



 
     中野 聖子会員「マイライフ」
 
   コンバンワ お時間をいただいて簡単に自己紹介をさせていただきます。
プログラムに『マイライフ』とカタカナで紹介いただいておりますがそんなおしゃれなものではございませんので最初にお断りしておきます。
 千葉市内で炭、練炭、薪、炭団といった昔の燃料を商う小さな商人の次女に生まれた私は「また女の子か」と父親をがっかりさせたそうです。
 その時代がどんなものかを創造していただける材料としてお話しするのですが自宅の燃料店がボヤを出して新聞に載りました。
タイトルは『千葉市ではしご車、初出動!!』と言う記事でした。
 昭和30年代、千葉市の消防署に初めてはしご車が入った頃のニュースです。入学した新宿小学校は3年生になると分校に通います。ちょうど今の新宿中学校が当時の新宿小学校の分校でした。その頃はまだ埋め立てていなくて校庭と海とつながっていて体育の時間に海苔を取ったり、蟹を捕まえたりと それはそれはのんきな時代でした。まだ舗装していない通学路にはあさりの殻だらけで自転車やリヤカーが通る度にシャリシャリと音を立てて、ぷーんと磯の香りがしていたのを思い出します。
 小学3年生のとき両親の離婚をきっかけに小学校4年生から高校2年までの8年間八千代市の親戚の家に預けられ育てて頂きました。
 その頃の八千代市は千葉郡八千代町と言う表記でした。親から引き離されてとんでもなく遠くに着たもんだとびっくりしましたが今思うと自分のおかれている状況がそんな切ないという事もなかったように思います。
周りの学校の先生方やご近所の大人のひとたちは小さいのに親から離れて可哀想にと思ったのでしょうか、わがまま言わずに明るく元気にしているといい子だねと可愛がってもらえることをいち早く覚えていったような気がします。しかし、いい子にしていることに少し疲れたのか、母親恋しさだったのか?高2の中間テストの時に鞄一つで親戚の家を脱走しまして母親のもとに戻りました。
 母親は小料理屋を始めていて、姉、弟、私の全員そろったのがうれしかったんだと思います、女手ひとつで頑張っていました。学校から帰るとお皿洗いを手伝ったりしながら こっそりと言うより、どうどうとお酒やたばこを経験したのもこの頃だったと思います。母親がよく口にしていた話なのですが
“あのね、物には心があるのよ、だからもちろん、お酒にも心があるんだよねー!お酒のんで一度や二度失敗したくらいで嫌ってはだめなのよ。これでもかこれでもかって懲りずに飲んでいるとね、お酒のほうから自分を好きになってくれるのよ” この言葉は都合よく聞こえ 酒飲みの自己弁護かと思って聞いていましたけれどいまになってよく考えてみるとすべての事に通じることだと気がつきました。
人との付き合いにおいてもそのとおりですし、また社員に工具を買い与えるときにも “工具にも心があってね、道具を道具として大切に扱うと喜んでくれて、こいつはタイシタモンダ!腕を上げてやろうって!仕事の腕を上げてくれるのよ!だから大切に扱いなさい”と母親の話を口移しのように使ってしまいます。特にお酒のことだけはいまだに親の遺言を守っております。
 そんな少女時代の経験と高校時代の落研で磨きあげた図太い神経をブラ提げて、いろいろな方々に可愛がっていただき、お世話になり、ご面倒をお掛けしながら成人しました。
高校時代に出会った落語ですが逆境に出会ったときどれほど救われたかわかりません。落語なくして人生を語れないほど大好きです。
余談ですが立川談志が好きで好きで寄席や独演会に入り浸りまして、
噺家のおかみさんにあこがれていました。しかしながら噺家さんたちに聞いてみますと“家に帰ってまで落語評論家と一緒にいるのはいやだよ!おかみさんにする人は落語を知らない人がいい”と言われまして、夢はあっという間に覚めてしまいました。
 二十歳でグラフィックデザインの専門学校を出てから小さな広告代理店で4年間お世話になりその後、看板のデザインを描かせていただいたのがきっかけでご近所の看板屋さんに入社しました。弟を下宿させ、姉を嫁がせた母は私との二人暮らしを楽しんでいる頃でした。ネオンの柔らかい輝きや書き屋さんと言われる職人の芸術的な筆さばきに魅了され、この頃は何を見ても初めてで面白く、仕事が楽しくて今までにない充実を覚えた毎日だったと思います。物づくりの面白さに気付かせてくれたこの職場が経営困難で倒産しました。同時にこの年母親が病に倒れ、57歳で亡くなり、母の跡をついで小料理屋を続けてみようかとも思いましたが溜まっていたお給料の代わりに工場の機械を2台いただいたのをきっかけに、母の店をたたみ、自分の会社を創ろうと思い立ち自宅に電話を1本引き、気がつけば法務局へ届けを出し終えていました。
若いというのは怖いもの知らずだし無謀です。恥ずかしさも不安も感じず、
あとさき何も考えずの独立でした。
 看板制作会社 設立昭和59年3月、29歳でした。とは言ってもたった一人での始まりでしたからお受けした仕事は外注先にお願いしての出発で、作業場を探しながら訪ねてきた知り合いを仕事に誘い、また仕事の合間に近所のインテリアデザインの学校に生徒として入学、男子生徒をバイトや社員に勧誘しながらスタッフを徐々に集めました。
 スタートした頃は全くの素人集団で失敗ばかりでしたから今日があるのは懲りずにお仕事を発注してくださった多くの方々に会社ぐるみ育てていただいたようなものです。現場にも行きましたが「うるさくて仕事にならないから帰ってよ!」と社員から苦情がでたり、高い所に登って足が震えて動けなくなり救出されたりといくらでも失敗談はあります。女の癖に看板屋なんては無理じゃないかと言われて少しだけ唇を噛んだ頃もありましたけれども 高校時代に読んだ司馬遼太郎の坂の上の雲だったでしょうか?
 『大砲の撃ち方は知らなくても戦争はできる、どこに大砲を置けば良いのかがわかればいいんだよ』とかの大山元帥の言葉だったと思いますが、その言葉に救われまして、半人前ではありますが気を持ち直して大勢の方に助けられながらここまで来ました。しかもこの間に結婚も離婚も人並みに経験させていただきまして、よちよち歩きで今も頑張っている最中です。
若いころに可愛がっていただいた方に“頑張って先輩にご恩返ししたい”と言った私に返ってきた言葉は“生意気言うな!俺に恩返しなんてできなくていいんだよ。受けた恩は自分ができるようになったら後輩にしてあげればいい。俺もそうしてきた。世の中は順送りだよ”と言う言葉でした。有難いと思いました。
この卓話のお話があった時に マンガチックに世渡りをしてきた私の人生を振り返って見ましたら、還暦が過ぎた今も、諸先輩方からいただいた多大なご恩を後輩に申し送ることができればいいのですがなかなか実践には至っておりません。
先程も申し上げましたが落語を聴くことは私にとっては趣味以上なことですが、
何が好き?と聞かれれば海釣り、ゴルフ、スキューバダイビング、フラメンコダンス、三味線、小唄、といろいろかじって来ましたどれも長続きしていません。
それでも何が好き?と聞かれれば、いまや独居老人となった私はやはり人と会う事、人と一緒に食事する事、人と一緒にお酒を飲むことが一番好きです。
同業者の方とのお付合いは技術的な向上がありますし、異業種の方とのお付合いは精神的な新しい発展につながりそうです。
 こんな私でございますが末永くお付き合いいただけますよう、またロータリークラブの事も一からご指導いただけますようよろしくお願いいたします。 
こんな未熟な内容で皆様の貴重なお時間を使わせていただき、ただただ恐縮しております。同時に新参の私に貴重な経験をさせていただいた先輩方に深く感謝いたします。終わります。ご清聴ありがとうございました。


 
  佐々木 宣雄 幹事
 
 













 
   
 
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