◆ 2017年 10月26日  837回 例会 ◆
「新会員 会員卓話」
例会場: ホテルニューオータニ幕張

     加藤時春 会員  
 
25年振りに八丈島に行って来ました。前職の恩師のお墓参りを兼ねた小旅行です。晴天に恵まれ、八丈富士への登山も予定外でしたが果たすことが出来ました。山頂からの島とそれを包む鮮やかな青い海原が心に焼き付きました。写真はランチで食べた金目鯛の兜煮ですがとても大きく美味しく頂きました。温泉もあって楽しめました。皆さんも機会がありましたら是非八丈島観光をなさってみては如何でしょうか。





 
    新会員:伊藤 宏司 会員 卓話 

 
 
本日は、例会の場でお話しする機会をいただきまして誠にありがとうございます。
先日は新入会員の歓迎会を開催していただき、お酒を飲みながらたくさんの先輩方とお話しが出来て、とても楽しく過ごさせていただきました。この場をお借りして改めて御礼を申し上げます。
 まずは、簡単に自己紹介から入らせていただきます。昭和50年6月9日生まれ 現在42歳 3人兄弟の長男でございます。
市原市の藪という場所に在住しており、妻ともうすぐ1歳になる娘、義理の母と4人で暮らしております。会社は、市原市に事務所を構え、食品・雑貨・ギフトの卸業をメインに広告デザイン・印刷、看板製作などの事業を行っております。
趣味は、ゴルフとお酒です。ゴルフやお酒の席では、様々な方との出会いや普段お付き合い出来ないような方とご一緒できる機会があるところに魅力を感じております。今までも多くの素敵な出会いがあり、私の人生において大変欠かせないものとなっております。お酒は飲み過ぎてしまうことが多いので体のことを考えて少し控えなければ…と思っております。
 次に私の経歴でございますが、
母親の実家 岐阜県で生まれました。3歳まで東京の江東区に住んでおり、その後父親の仕事の関係で千葉市稲毛区に引っ越して参りました。私は、小学2年から野球を始め、小学校・中学校は、勉強よりも野球中心の生活でした。
中学では、シニアリーグのチームに入り、家から八千代の球場まで自転車で1時間半掛けて通っておりましたが、2年生の途中で通うのが苦痛になり、別のチームに移籍しました。同じリーグの別のチームには巨人で活躍した同い年の高橋由伸くんがおり、よく対戦しておりました。
 高校は、稲毛の千葉工商高校学校 商業科に入学し、野球部には入らず、アルバイトをしながら、適当に遊び、勉強もほとんどしない高校生活を送っておりました。卒業後の進路については何も考えておらず、やりたいことも無く、勉強もしていなかったので、悩んでいたところ、仲の良い友達がホテルの専門学校に行くというので、なんとなく一緒に入学してしまいました。
そんな感じで入学した専門学校でしたが、なんとか卒業することができ、この近くのホテルスプリング幕張に就職しました。
入社して1年半を過ぎた頃、子供が出来たのをきっかけに結婚をし、23歳で父親となりました。
家族が生活するには厳しい給料でしたので、別の仕事を探していた所、オープンするゴルフ場の紹介をいただき、木更津のゴルフ場に転職致しました。
ゴルフ場では、レストラン、キャディマスター、フロント、総務など様々な仕事を経験した後、横浜に営業所を立ち上げ、新規会員権の販売を行っておりました。アクアラインが開通して間もない頃で、都内や横浜から大変多くのお客様が来る人気のゴルフ場でしたので会員権も売れて、安心しておりましたが、横浜へ行って1年ほどで会社が外資系のグループに買収され、営業所を閉鎖致しました。それをきっかけに他のゴルフ場へ転職し、約3年勤めた後に退職し、会社を起業して現在に至ります。
 次に家族についてお話をさせていただきます。父は、現在69歳 約50年間大工職人一筋で家族を養っていただきました。
一昨年に脳梗塞で倒れ、右半身に麻痺が残ってしまったのをきっかけに仕事を引退しております。とても亭主関白で感情の起伏が激しく、いつも怒鳴っていて、私は常に父に怯えておりました。また、とてもギャンブルが好きで、私が幼稚園ぐらいの頃は、競馬・競輪・競艇・オートレース、パチンコなどによく連れて行かれたのを覚えています。
母は、おとなしい性格でいつも父に怒鳴られながらも我慢強く、家庭を支えてくれました。
私は、22歳で結婚し、その後二人の娘に恵まれました。現在長女は、18歳大学1年生、次女は14歳中学2年生です。
長女は、先天性の難聴で補聴器なしでは、ほとんど耳が聞こえない障害者です。その事実を知った2歳の時から補聴器を付けて言葉の教室に通い、手話を使いながら言葉を覚えさせるなど努力をした結果、手話なしでもだいぶ会話ができるようになりました。現在は聴覚障害者が通う聾学校の教員を目指して大学に通っております。
次女は、そんな姉を見て、音が聞こえづらい場所だとわかると手話を使って言葉を伝えるなど、とても気遣いができる優しい子です。5歳年が離れていますがとても仲の良い姉妹です。
 3年前に離婚をしましたので、娘2人は前妻の元におりますが、毎月娘2人と一緒に食事をするのが楽しみです。
現在私は、再婚をして生後10ヶ月の娘がおります。つかまり立ちをしてもう少しでよちよち歩きをするのかなーという感じで、娘というか孫のような感覚でとても可愛くて仕方ありません。日々子供の成長を感じながら生活出来ていることがとても幸せです。
 次に現在の仕事についてお話させていただきます。私は7年前にゴルフ場を退職し、現在の会社を立ち上げました。
2名で始めた会社ですが、2年目から1名ずつ従業員を増やし、現在6名で行っております。
事業内容をいくつかご案内させていただきます。
まずは、ギフト事業でございますが、こちらは法人、団体、イベント会社様の販促品、記念品の制作、お中元、お歳暮ギフトなどを扱っております。
法人様では、特に決算前に販促品をまとめてご購入いただくことが増えておりますので、ご要望がございましたら、是非お声を掛けていただけたら幸いでございます。
また、各種イベントの景品手配も行っております、ゴルフコンペ、記念行事、忘年会、パーティなどの景品をゴルフ場や各企業、団体、イベント会社などから依頼をいただき、予算に合わせて商品を選定し、会場へお届けします。
商品内容は、家族が喜ぶような食品をメインに、電化製品、健康グッズその他多種多様の商品をご用意できます。
現在、千葉県内ゴルフ場約60コース、その他保険会社やハウスメーカー、労働組合、イベント会社などから年間1,000件以上のご依頼をいただいております。とても手間が掛かる仕事ですが、お客様にご満足いただいて、かなりリピートをいただいておりますので、今後もこちらの事業は拡大して行きたいと考えております。
 2年前ほど前から全国の牛乳販売店約200社に食品・雑貨・サプリメントなどの販売をおこなっております。特に当社で扱っている今治タオルが人気で年間2万枚ほどのご注文をいただいております。全国に牛乳販売店は約1万件あるそうですので、こちらの事業もさらに拡大を目指しております。
 また、別事業におきまして昨年、協同組合を設立し、組合の代表理事を努めております。
フィリピンからの外国人実習生の斡旋を行うため、現在準備を進めている段階でございます。
以上で私の自己紹介を終わらせていただきますが、
まだまだ、私自身も会社も未熟でございます。この千葉若潮ロータリークラブに入会し、奉仕の精神を学び、地域・社会に貢献して成長していければと思っております。今後共よろしくお願い申し上げます。
ご清聴いただきありがとうございました。


 
   新会員:北原 賢治 会員 卓話 
 
    
みなさんこんばんは。北原賢一と申します。
 今日は,こうして皆様の前で,お話しをする機会を与えて頂き,ありがとうございます。これまで自己紹介をする機会というのはそれなりにありましたが,10分間というのは初めてです。それで,まあどういうことをしゃべろうかと考えて見ると,これが短い自己紹介だと,都合のいい部分だけで済むわけです。10分間使って詳細に,と検討してみると,我ながら本当に恥ずかしい情けない話ばっかりなんですね。
それでも,そういう部分こそ,皆様に私という人間を知って頂けるチャンス,と思いますので,思い切って恥をさらけ出したいと思います。つまらない話ではありますが,どうぞおつきあいください。
これから,①これまでのこと,②現在のこと,③今後のこと,と3つに分けてお話ししていきたいと思います。
まず,これまでのことをお話しさせてください。
昭和48年,千葉市花見川区で生まれました。父は昭和11年生まれ,母は昭和15年生まれ,私の上に,8つ上の姉と,2つ上の姉がいます。
子供時代の自分自身のことで取り立ててお話しするようなことは特にないのですが,私が小学校くらいのとき,というのは,世間ではなめ猫,ゲームウォッチなんかが流行していたような時代ですね。
 中学校を卒業すると,この中にも先輩がいらっしゃるのですが,千葉の市川高校という高校に進みました。今は共学になっているのですが,当時は男子校でした。入学式当日は本当にお先真っ暗,という感じで,本当に後悔しました。男子校なんかに来るんじゃなかったと。だけれども,それは最初だけで,本当にこの高校時代はメチャクチャ楽しかったですね。自由だったし,先生も生徒も本当に色んな人間がいました。びっくりするくらい理不尽な先生もいましたけど,当時はそれはそういうもんだと普通に思ってました。
今も,人生がもう一回あったとしても,男子校生活をどこかのタイミングですべきだと確信している位です。 
高校時代,私はすっかりバンド活動にはまっていました。当時は空前のバンドブームで,猫も杓子もエレキギター,という状況で,私自身それまで,音楽の素養なんてまるでなかったのですが,見事に世間の流行に乗っかったかたちです。きっかけはともかくすっかりロックにはまってしまって,もうそれが全ての中心,という毎日でした。バンドの中ではベースという楽器を担当していました。この頃は,まだ音楽でどうこう,というのは考えていませんでしたが,大学の軽音楽サークルでひたすらロック漬けの毎日を送ろう,ということしか考えていませんでした。
 そんな状態でしたから,一度目の大学受験は見事に失敗しまして,一年間浪人生活をして明治大学の政治経済学部に進むことになりました。このとき,政経学部を選んだのは,政治を勉強したい,なんてことではなくて,当時の明治政経というのが,東日本で一番卒業が楽,といわれるくらい出席だとか評価だとかがゆるいところだったからです。「実績の法,看板の商,パラダイス政経」なんて言葉があったくらいです。
 ともかくゆるゆるの政経学部に入って,目論見通り,学業そっちのけでバンド活動に熱中していました。4年間でなんとか卒業できてしまったわけですが,本当にバンド活動しかしていなかったので,卒業後はフリーターになってしまいました。
当時は,プロのミュージシャンになりたいな,という気持ちもありましたが,もちろんプロとしてずっと音楽でご飯を食べていくのがどれだけ難しいか,というのもあって,アルバイトをしながらでも好きな音楽をずっと続けていきたいな,という気持ちも半分くらいありました。
なので,このころは本当に色んなアルバイトをしました。なかでも,某ファミレスチェーンの清掃会社のバイト,というのが一番長くて,5年くらいやっていたと思います。これは,閉店後のファミレスの店内清掃の仕事なんですが,受け持ち範囲というのが千葉県全域にとどまらず,東京,埼玉,神奈川のお店もありました。大体,深夜1時くらいに基地局に集まって,3,4人のチームで機材を積んだハイエースでお店を回るんですね。
 仕事自体は体力的に楽じゃなかったですけど,好きなことをやっているんだ,という日々でしたから,全然苦ではありませんでした。
ですが,29歳の時に,当時やっていたバンドが解散することになりました。大学在学中からずっとやってきたバンドです。このときに,3人4人という集団で何かを目指す,ということの難しさというか脆さみたいなものを痛感するようになりました。そのバンドが解散してからも,1年くらいは知り合いのバンドのライブを手伝ったり,自分でもメンバーを探してみたり,ライブハウスに出入りしたりいろいろ動いていたんですけど,まあそんな中で色々と感じること考えさせられることも多くて,次第に「何か違うな」「このままでいいのかな」と感じるようになっていきました。それで最終的には,もう「終わり」とはっきり思ったわけです。バンドみたいに運命共同体のような形でなくて,自分一人の覚悟と鍛錬で突き詰めていく道を進んでいかなくちゃいけない,と思うようになりました。
それが30歳のときでした。そういうわけで,30歳にして,バンドの道,ミュージシャンの道を断念することになった私は,次に何をすべきか岐路に立たされることになりました。
もちろん,今,仕事の中で,困っている人を相手にしていますし,そういった人たちの助けになることに喜び,やりがいを感じているのは事実です。でも,本当に司法試験を目指すという選択をした当時というのは,30歳,社会人経験もなく特殊能力もない自分が社会のスタートラインに立つには,資格試験―それもその資格をもつことが仕事につながる―に受かるしか他にない,という考えが根本でした。
当初は,3年で受からなかったら,すっぱり諦めよう,と思っていました。実際は,3年勉強したあげく法科大学院に進学することになったので,当初想定していたよりも大分時間がかかってしまいました。
結局,何とか司法試験に受かることはできたのですが,私の場合,ここからがまた大変でした。実際受かってみると,世の中は既に弁護士が過剰となっていて,私のように年齢が高いくせに特に経験もなく成績もパッとしない人間は,やっぱり就職先がないのです。もうこれは,30歳の時と同じ状況に戻ったような感じでした。就職難から資格試験を目指したけれど,資格試験に受かっても就職難と。
 それで,本当に行くところがなくて,司法研修所での研修が終わっても決まらない,もういよいよ「いきなり独立開業」もやむなしか,というところで,今の事務所のボスに拾ってもらうことになりました。今の事務所のボスというのは,私が通った法科大学院に実務家教員としてきていた弁護士で,卒業後も色々相談に乗ってもらっていたのですが,本当に窮地に陥ったところで相談に行ったら,「じゃあうちに来い」っていって拾ってもらったんですね。
 私が入所6年経って未だに独立しないで事務所にとどまっているのは,ひとつはこのボスにまだまだ恩返しができていない,ということがあります。
 今,ロータリーの他の支部に弁護士の方色々いらっしゃいますけど,私から見ると本当に重鎮,大御所,という方ばかりです。自分はといえば,先ほどもお話ししたように,ペーペーもいいところなわけです。なので,本当になんか私なんかが入ってもいいのかしら?というのは今も感じているところです。
 今いる事務所は,いわゆるマチベンというやつで,一般民事全般をなんでもやるところです。自分のなかで柱と考えているのが,交通事故,相続,離婚の3つです。これらのうち,特に最初の2つは,どんな人にも発生しうる可能性がある問題だと思います。皆様におかれましても,なにかありましたら,是非ともよろしくお願いいたします。
 あとは,いわゆる代理人としての活動以外のものとして,自治体の個人情報保護審査会の委員というものをやっています。それから,今年から,母校である千葉大学法科大学院で,今年から非常勤講師を努めさせて頂くことになりました。
 と,ここまで仕事の話が続いたところで,プライベートの話をさせて頂くと,皆様から出産祝いを頂戴しましたが,今年の6月末に,第2子,次女が産まれました。上に2歳になる長女がいます。妻と,この2人の子の4人で,暮らしています。
 実は上の子が産まれるまで,ゴルフにはまっていたのですが,子供が産まれてから,なかなかコースも練習も行けなくなりました。今現状は,仮にいっても,一緒に回る皆様にご迷惑をかけるような状態なのですが,一日も早く練習を再開して,いつの日か皆様とゴルフをご一緒できるように,と希望しておりますので,その際にはどうぞよろしくお願い申し上げます。
 最後に,今後の目標というか。抱負のようなことをお話ししたいと思います。仕事面でいうと,例えば「最高裁判例を作る」とか「冤罪事件で無罪を勝ち取る」というようなそういう種類の野心はありません。
 というか,「なにをしたい」というのはないんですね。そのかわり「どうなっていたいか」ということはよく考えます。やっぱり一番は,「あ-,この人にこう言われたら仕方ないな」と思われる説得力,雰囲気を持っていたいですね。この仕事をやっていて,もちろん相手との勝負,というのは大事なわけですけど,結局のところ依頼人がこの弁護士に依頼して良かったと思ってもらえるのが一番だと思うのです。極端な話,法律論や戦術,知識を駆使して紛争の相手方に勝ったとしても,それが依頼人のニーズを満足させるものでなければ意味が半減するものだと思うのです。自分が50,60,になったとき,自分の依頼人に,負けた事案で「負けちゃったけど,この弁護士に任せたのは間違いじゃなかった」と思ってもらえるような弁護士になっていたいです。
 それから,自分がロータリークラブにいることに違和感を感じない状態になっていたら良いですね。そういうところを気にせずに,今やっていることを根拠に,胸を張って皆様の中にいられるようになっていられればいいな,と思います。
 本当にとりとめのない話でしたが,私の初めての卓話はここまでとさせていただきます.最後までおつきあい下さいましてありがとございました。

 
   新会員:福田 恵司 会員 卓話

 
 
 本日は貴重なお時間を頂きありがとうございます。
私、福田恵司は昭和56年9月6日36歳で東京の新小岩に産まれました。3人兄弟の三男になります。
今家族は妻男の子二人の4人家族で暮らしていたんですが、嫁が一人っ子なので最近うちに嫁のお父さんお母さんと住んでいるので6人賑やかに暮らしています。
略歴を話させてもらいます。
生まれは都内なんですが幼稚園に入る時千葉の稲毛に移りそれからはずっと千葉に住んでおります。幼稚園小学校では身体が大きくよく喧嘩したりして親を困らせていたと聞いてます。
小学校の高学年になる頃には身長が170近くになりその頃からフケ顔と言われていたのを思い出します。
少年野球も身体が大きいので有利だった気がします。
中学からはバスケットになり汗を流していたのを思い出します。
高校に入る頃にはスポーツマンではなくなってきてしまい、女の子と遊ぶほうに興味が行ってしまいそれが今の仕事に活かされてる気がします。高校に通いながら入ったバイトがお寿司屋さんで高校卒業するまでやっていたのでシャリを19グラムぴったりくらいに取ることが出来るまでになりました。
この頃からバンド活動を本格的にやり始めお金のないなかライブ活動したりして就職はしないで頑張っていました。
バンドにも限界が見え不動産会社に勤めるのですが飲み屋にはまってしまいそのハマったお店にそのまま軽い気持ちで働き始めたのが今に続く形になっています。
先ず始めに働いたのが市原の飲み屋さんでここはかなり風体の悪い方が多く、今も怖い方かが来られても動じないようになりましたね。それから千葉の方で働き始め実践経験をかなりつめたので秋葉原で自分でお店をやることが出来ました。
初めての多額の借金にどうなるかと思いましたが、何とか形になっていき返済することが出来ました。何故秋葉原とよく聞かれたんですが完全にAKBの人気にあやかろうとしていました。
千葉に戻ってきてお店を共同で出すこともでき新しい取り組みとして余り飲み屋業界ではしない異業種交流会に参加することにしました。ここでの経験はかなり有意義で集客だけでなく色々な知識や人脈を手にすることが出来ました。
今幹事をやられている原田さんともその流れで仲良くさせて頂く事ができ去年ゴルフを一緒に回ってる時お前来年ロータリーなって言われてイエスかはいしかない空気で受けさせてもらいました。
随分前からの話しなので忘れるかなと期待していたのですがやはりロータリー愛の強い幹事なので会うたびに言われ続け入会に至りました。
これからの自分の展望としては店舗出店ばかりではなく、今いる従業員達が次に働ける職場を作り続け、まー40、50でボーイさんは大変ですからw
地に足のついた職を形にして自分の職種を皆さんに胸張って言えるようにしていくつもりです。
ご静聴ありがとうございました。

 
   新会員:茂木 勇介 会員 卓話
 
 
㈱勇輝美装の茂木です。
本日は自分のような者に、このような素晴らしい場でお話せていただき、
ありがとうございます。
人前で話すのは、物凄く苦手で、お聞き苦しいとは思いますが、宜しくお願いいたします
自分は1979年12月に千葉市中央区で、定食屋の息子として生まれてきました。
父は基本的に全く怒らない親で、むしろ子供に対し感心がほとんどなく、仕事と筋トレと遊びに夢中で、比較的自由人な父親でした。
過去に一度本気で怒られたことがあり、ぼっこぼこにされてからは、恐怖心があり、あまりさからえませんでした。*今でも筋トレを欠かさずやっており、怖いです。
母親は父親に対し全く正反対で、1~10までの教育を1~20ぐらいまでしたがるような母親で、物凄くうるさい親でした。
小学校の頃は太っており、学校に行けばいじめられ、家に帰ればずーっと怒っている母親がいて、毎日生きている心地がしない日々が続いていました。
中学校になり、バスケットボール部に入り、部活の顧問はめちゃくちゃ厳しくかなり怖い人でしたが、20キロの減量に成功して、気づけばいじめも無くなっており、バスケット部のキャプテンも務め、女性遊びも覚え、先輩関係を除けば、非常に楽しい生活を送りました
自分の実家は、あまり裕福ではなく、かなり貧しい生活だったので、高校には行かず、早く仕事したかったのですが、母親と先生にかなり説得され、一応高校に入学しましたが、やはり、一日でも早く、仕事をし、稼ぎたいという思いが強く、高校一年生の夏休みで、高校を中退して就職をしました。親は怒ると言うより、自分の将来をすごく心配してくれて、高校を中退するにあたり、父が一つだけ条件を出してきました。その条件と言うのは、
「そこまで覚悟を決めているなら、しょうがない、但し一つの仕事をやり続けろ!もしそれが達成できなかった場合でも、フリーターや無職には絶対になるな!なった場合は絶対に許さん!」
と言われ、高校を中退し、友達の紹介で始めた仕事が、ペンキ屋でした。色々な会社で勉強したかったので、数回会社を変えましたが、気づけば塗装業23年携わっています。
一応無職の日は一日もなく、むしろ毎月ほとんど休みなく、30日働き、夜勤も10日位出てました。お金を稼ぎ、女性との交遊や、かっこいいバイクや車が自分次第で買えると思うと、一日も休みたくなかったのでガンガン仕事をしていました。17歳で40~45万円ぐらいは稼いでいました。
今の世の中休み重視ですが、お金のない休みほどつまらないものは無いと今も思っています。
免許を最短で取りたかったので、一度会社を辞め、フリーターになったことはあります
独立するまでは、「何でみんな独立なんてするのだろう?自分の仕事の評価をしっかりしてくれるところをさがして、自分にとっておいしい会社にいた方がよっぽど儲かるし、リスク無いでしょ!」とかなり自分だけの考えを持っていました。
独立する前の給料は、平均で月80万円ぐらいでした。その当時は貯金もせず、毎日のように「飲み・女性遊び・ギャンブル」をやっていました。そもそも独立する気が全くないのに、独立するきっかけとなったのは、
26歳の時です、調子に乗っている自分に、友人からかなりおいしい話が来たのです。
その内容は、「一件家の家を塗り替えして1棟50万ぐらいの物件が月に何件もあるから、やってよと言われ、開業届も出さず、モグリでその仕事請けてしまいました。」一人手伝いを呼び、二か月で約300万円ほどの売り上げが上がり、かなり調子に乗ってしまいました。手伝いの人をかなりこき使い、さらに調子にのっていると、」天罰が下りました。
初めての支払いで、仕事を紹介してくれた友達がお金をもって逃げてしまったのです。
訳もわからず、色々な人に相談をしたら、「それはやられたね!」「たぶん計画的だよ」
「最近あいつお金でいいうわさ聞かないからね!」
と、周りの方から言われ、当時遊びまくって貯金もなかった自分は、「これはヤバいと思い、必死に金策に走りまわりました」
親にも土下座してたのみ、カードの限度額も限界まで借り、何とか支払いには間に合わせましたが、財布を見ても1万円もなく、自分の車のローンや色々な支払いが出来なくなってしまい、ブラックリストに載ってしまいました。
当時は妻と子供一人でしたが、ごはんも買えない状況になってしまい、親に頭を下げ、白米だけはもらい、飢えを何とかしのいでいる状態でした。
妻とは毎日喧嘩をし、とうとう妻の口から「私キャバクラで働く」と言われ、それだけは絶対に嫌だと思い、心の底から妻に謝り、当時の自分は初めて死ぬ気で仕事をしました。
昼と夜両方働き、3日間寝ないで、4日目に夜だけ休むという生活を半年間続け、ブラックにはなってしまったのですが、何とか危機を乗り越えました。
当時は友達を物凄く恨みましたが、今となっては友達に感謝の言葉しかありません。あのまま調子に乗っていたら、300万では済まない負債を抱えていたと思います。
*因みに妻はキャバクラで働きませんでした。
*寝ないで仕事出来たのは、気合根性を教えてくれた、部活の先生のおかげだと思います。
*今現在はブラックではなくなりました。
この約一年間で、生まれてきて心の底から初めて思ったことがありました。「生きていく中で、お金は本当に大事だな!」「お金が無ければ、自分についてきてくれる家族や従業員もみんな不幸にしてしまう」
という築きが生まれました。
そこから仕事について、本気で考えだし、しっかり開業届も出し、取引先のお客様も、目先の利益で動くのでなく、支払い等も間違えない会社と取引するようになりました。
間違えの無い会社と取引するようになり、入金もしっかりと入ってくるようになったのですが、今度は自分がお金を払うのをビビるようになってしまい、従業員にはしっかりお金を払っていたのですが、税金をほとんど払わず経営をしていました。
2年目で年商も3千万ぐらいなり、全て脱税していたので、貯金もいくらか出来、安心していました。
そんな中、取引先のお客様と食事をしているときに、「そろそろ法人にした方がいいよ」
と言われ、後日自分の知り合いから紹介していただいた税理士さんと話すことになりました。
税理士さんと過去の売り上げ等を話していると、税理士さんはあきれた顔で自分を見ながら「今まで何やってたの!めちゃくちゃだね!」「これは脱税だよ!」「修正して追徴課税を払わないとまずいよ!」と言われ、かなりビビってしまい、所得修正をし、追徴課税を払いました。
税金を払い、また貯金が殆どなくなってしまった自分は、怖くなってしまい、
「今よりも人をもっと入れて、ガンガン現場を回さないと、いつまでたってもお金がたまらないと」と思い、人を10人ぐらいに増やし、給料を安く設定し、ひっぱたいたりして、従業員を奴隷のように扱い、お山の大将をやっていました。
1年ぐらいこんな経営が続き、たまたま出会った違う塗装屋さんの社長が、「経営者の勉強会みたいなのがあるから一緒にいかない?」と言われ、かなり面倒くさいなと思いながらも、渋々行き、世間を知らな過ぎた自分は、
オラオラな感じで、俺はすげーぞ、一番だ!みたいな、どや顔で勉強会に行きました。
そこで色々お話しをさせていただいて、自分が思ったことが、「なんて自分は小さい人間なんだ!」「恥ずかしくてこの場からすぐ立ち去りたい」と、思いました。
歳は自分の二つ下のロン毛のクルクルパーマの社長が60人ぐらいいる会社の社長だったり、自分の一つ上の、元暴走族の社長が70人ぐらいいる会社の社長だったり、今まで、物凄く小さい村にいた自分が、初めて世界に出たぐらいに衝撃を受けました。
結局自分の自己紹介は、「四街道の片隅で、小さく塗装屋をやってます」で終わりにしました。
*因みにその勉強会は、ロン毛だとか、暴走族とか言いましたが、他の方は真面目な普通の方で、ちゃんとしている勉強会で、後にロータリークラブに紹介していただきました、原田先輩ともここで出会いました。
この勉強会に翌日すぐに入会し、勉強会がある日には、全て行くようになり、ロン毛の社長や暴走族の社長、原田先輩、その他の社長とも仲良くなり、会社の仕組みや組織についていろいろ学び、今に至っております。
今現在は社員をひっぱたいたりとかは一切していません。
仕組みや組織が昔に比べしっかりとしたので、会社も任せられるようになり、色々な勉強会も出れるようになり、業務拡大や戦略も色々考えられるようになってきました。今、当社の最大課題は人手不足だと思っています。
今年から来年にかけ、塗装屋の全国組織も作りたいと思っております。
このネットワークが成功すれば、人材不足で仕事を断る確率が減ると思っています。
さらにもう一つ人材不足の解消をするために今年はベトナムに会社を作り、今週からやっと稼働もしました。
向こうで実績を作り、職人不足の日本に、技術を持っているベトナム人が簡単に行き来できるような仕組みを本気で作りたいと思っております。
もしベトナムで会社を持っている人がいらっしゃいましたら、ご紹介お願いいたします。
ベトナムに旅行に行く際も何かあれば、対応できると思いますので、ご相談下さい。通訳やローカルの遊びもご紹介できると思います。
こんな感じで、気合根性のみで進んでいる会社ですが、会社経営をして死ぬわけではないので、死ぬ気で会社経営をしています。
自分が小さいながらも会社経営をしていく中で思っている事なのですが、これから話すことは本当に自分の意見ですので、お聞き苦しても、怒らないでください。
自分は今流行りの、「草食男子」「イクメン」という言葉が大っ嫌いで、「昭和の日本男児」という言葉が大好きです。
今の世代の若者は、女性よりも男性が束縛し、女性と食事に行っても割り勘、さらに酷くなると女性が全て支払い、結婚しても共働きが当たり前、さらに酷くなると、家事も女性に任せ、稼ぎも女性に任せている男子が非常に増えています。
いい車買って、綺麗な女性と遊びに行き、見栄をはりたいという男子がかなり減ってきている気がします。
今の若者は欲が無くなり、稼ぎ重視ではなく、休み重視になっていることに、自分は非常に危機感を持っています。
せめて当社の社員や当社に携わる若者には夢を語らせ、稼ぐことを覚えてもらい、しっかりとルールを守り、綺麗な仕事をし、人間の欲をむき出しにしてもらっています。
今の時代の流れとは逆に行っている会社ですが、これからも気合根性で行きますので、どうかこれからも末永いお付き合いの程、宜しくお願いいたします。
お聞き苦しい点が殆どだったと思いますが、自分の話は以上になります。皆さまどうもありがとうございました。

 
   「新入会員オリエンテーション」
 
   例会前の15時より17時半までの2時間半、クラブ&クラブにて「新入会員オリエンテーション」を行いました。
講師の佐々木会員のもと先輩ロータリアンと共にロータリーの仕組みや歴史を学びました。
 
     
   「ロータリー財団セミナー」
 
   平成29年10月29日(日)にTKPガーデンシティ千葉にて「ロータリー財団セミナーがありました。
当クラブから地区補助金プロジェクト委員長の清水直前会長、松原会長エレクト、幹事 原田の3名で参加致しました
写真は地区委員長として清水直前会長の挨拶です (千葉若潮ロータリー  幹事 原田)